鴻巣市日中友好協会 第2回中国講演会  

 

日時 : 平成23年11月20日(日)14:00~15:50 

場所 : 鴻巣市文化センター(クレアこうのす)大会議室A 

講師 : 田所竹彦氏  元 朝日新聞北京支局長 

演題 : 「辛亥革命百年の中国、この大国はどこへ行くのか」  

 

  開会の挨拶 (臼田誠躬) 

 

 “大家好!” みなさん、こんにちは。ただ今ご紹介頂きました鴻巣市日中友好協会の臼田です。本日は私の当初の想定を超えて60名近い大勢の方々に、ご多忙のなか本講演会に参加頂き、ほんとうに有難うございます。熊谷市日中友好協会の皆さん、ようこそ鴻巣の会にご参加下さいました。今後とも、市地域の枠を越えた相互交流を続けて行きたいと思います。 

 私は今年3月実に50年ぶりに二度目の大学を卒業しました。いきがい大学伊奈学園の同期生7名が友情参加してくれました。又、東京、横浜、遠くは広島市からも駆けつけてくれた、50年前卒業の外語の“老同学僴”と後輩諸氏の参加にも感謝致します。本講演会の準備にあってくれた会員の皆さんご苦労さんでした。鴻巣市内、及び北本市の全ての参加者にも御礼申し上げます。最後なりますが、さいたま日中友好協会の田中会長の紹介で大東文化大学の中国留学生、中国・武漢市出身の丁鵬さんが参加してくれました。 

 

 本題に入ります。今年は中国で辛亥革命の起きた1911年10月10日(明治44年)から数えて百年になります。その辛亥革命百週年を記念して、今年は各地で革命の指導者・孫文に纏わる記念行事や現在、ジャッキーチェン主演の映画「1911」(原題:辛亥革命)も上映されています。私の大学の先輩、田所竹彦氏が今年5月に著書「孫文―百年先を見た男」を再版されました。その本を読んで、田所さんが孫文を深く研究され、“毛沢東も超えられなかった中国の父”と高く評価されていることを知り、鴻巣にお呼びして講演会を開くことを企画しました。 田所さんは私達の要請を心よく引き受けて頂き、「辛亥革命百年の中国、この大国はどこへ行くのか」実にジャーナリスト出身者らしい見事な演題をつけられました。今や世界第二の経済大国になった中国ではありますが、内には民主化の要求、経済格差拡大、対外的には尖閣事件など領土をめぐる問題で、日本、周辺アジアにも懸念が広がっています。これから中国がどうそれら問題に対処して行くのか、今後の日中友好交流を進めて行くなかでも、関心をもって見守って行かなければなりません。 田所さんには、この大きなテーマについて本日は縦横無尽に語ってもらいたいと思います。以上を以て私の開会のご挨拶と致します。

 

 

 

   講演要旨 (田所竹彦氏)

 

 レジュメ

 

清王朝(女真族 太祖・ヌルハチ1616年即位 ~ 1912)

西太后(1835 ~ 1908) 光緒帝らの戊戌変法を弾圧。三百年余りにわたる清朝の歴史の終末に君臨したのは、皇帝でも宰相でもない一人の女であったが、崩壊に向かう清朝を50年近く支えた、ただものではない女帝だった。

 

 辛亥革命 (1911.10.10


 孫文(1866 ~1925) 兄の出かせぎ先のハワイへ1878年に行き、英語や西洋事情を学ぶ。

 1894年ハワイで興中会結成。1895年広州で暴動を起こしたが失敗。

         *孫文と中国の会党(秘密結社)との関係   “幫会”については別記

           洪門(紅帮)の海外勢力と孫文。ハワイ、サンフランシスコ、デンバー。

         *青帮と蒋介石(1887~1975

         *大河交通、港(上海etc)と在来結社。人口移動 相互扶助、保険、

          民間権益の擁護 → 滅満興漢。

 1905年、東京で中国同盟会結成。

 1911年、辛亥革命。清朝滅亡へ。1912年、中華民国成立。 

      孫文は中国国民党を結成。(1914年には中華革命党)

 1921年、中国共産党結成。

 1927年、蒋介石指導下の国民党、共産党と分裂。

 1936年の国共合作を経て日中戦争(1937 ~1945) 国共内戦あり、

      中華人民共和国成立 (1949.10.1) 中国共産党主席は毛沢東(1893 ~1976

      後継者とされた劉少奇、林彪、華国鋒、らは安定政権を作れず、

      毛沢東、周恩来(1898~1976)、朱徳(1886 ~1976) らの時代を経て

      改革開放 時代へ。 鄧小平(1904~1997) 現在に至る。   以上

 

1) 中国近現代史に登場した、三人の“中国の父” 

① “中国革命の父”- 孫文 広東省香山県(現在、孫文の号にちなんで中山市となる) 

翠享村の貧しい農家に生まれる。(1866年11月12日)  ハワイに留学英語、西洋事情の他、医学を学ぶ。列強の中国侵略を憂いハワイで興中会を結成して革命運動に身を投じる。広州で第一回の武装蜂起(1895に失敗し日本など国外に亡命、その後、東京で中国同盟会を結成。(1905 武昌蜂起後帰国、辛亥革命による清王朝滅亡後、誕生した中華民国の臨時大総統に就任する。辛亥革命をもって、中国は二千年来続いた専制政治に終止符を打ち新たな時代へ転換した。 

 

② “中国建国の父”- 毛沢東 湖南省湘潭県韶山の農家に生まれる。(1893年)

中国共産党創立大会に参加(1921第3回全国代表大会で「農民運動を重視せよ」と発言、中央委員、組織部長に選出(1923土地闘争を批判され同志部隊を連れて、江西省と湖南省の境界の井岡山に革命の根拠地を創設する。(1927)遵義会議で党・軍の実権を掌握(1935) 日本敗戦(1945) 後、再び国共内戦を制し、中華人民共和国成立を宣言する。(1949年10月 1日)

 

③ “中国改革の父”- 鄧小平 改革開放路線を推し進め、社会主義市場経済を導入、

中国経済を躍進させ、現在のGDP(国内総生産)世界第2位の経済大国に導いた。

現在の国家主席など国家指導部の2期10年交代制にも、レールを敷いたと言う。

 

2) “幫会” “幫”は“帮”の古字。 中国語でよく使う“帮忙”は「手伝う、助ける」の意味。 中国社会特有の民間秘密結社の総称。日本の暴力団などの闇組織とは違う。

初期の参加者の多くは大運河や長江沿岸の諸都市で活動した。後には成員の主だった者が官吏と結託して支配階級の手先となった。よく“洪帮”“紅帮”と対比される。

“洪帮”は孫文の革命運動を支援し、“紅帮”は蒋介石の国民党を支える基盤となった。

 

3) 田所氏は、自身の著書『孫文―百年先を見た男』―はじめにーの項で孫文を「百年先を見た男」と呼ぶ理由を次のように述べている。  

 晩年の孫文は、経済建設の方法としての社会主義に理解を示しながらも、階級闘争を「社会の病気」とみなし、それを社会改革の手段として評価することには真っ向から反対した。

 中国の伝統思想に立って調和を重んじ、平和的な方法で社会を豊かにする道をさぐり続けた。

 このような孫文の姿勢は、当時のコミュニストたちから「古くさいて、幼稚」と批判されたが、レーニンや毛沢東に代表される階級闘争至上主義の影が薄くなったいまとなっては、本当に新しかったのは孫文の方ではないだろうか。               

 

4) 辛亥革命から中国共産党による建国までを振り返ると、本当は辛亥革命で帝政をきちんと近代化にきりかえた上で次に進んだ方がよかった。

 日中戦争を含めて厳しい国際情勢もあり、それが十分できなかったのは残念でした。 マルクス・レーニン主義は体制破壊の便法ではあっても国民の民主的な思考を育てるには不十分。

 これを解決するのは中国人だけでなく、現代人に課せられた使命だと思います。 

 

      

                                          

 

 辛亥革命

干支の組み合わせで「辛亥」の年の1911年10月10日、武昌(湖北省)で清朝打倒を目指す革命勢力の軍隊が蜂起したのを皮切りに各地に武装蜂起が広がり清朝滅亡につながった。独立を宣言した地方政府代表が南京(江蘇省)に集まり、翌年1月、アジア初の共和国である中華民国が誕生した。

孫文は、三民主義を提唱するなど、辛亥革命を指導し、初代の中華民国臨時大総統に選出された。

 

 

『孫文 百年先を見た男』 田所竹彦著


 

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